命の楽園をまもって

よくいただくご質問

皆さまからよくいただくご質問をFAQ方式でご紹介します。

  • 辺野古の基地は、普天間基地の代替としてつくられる?

    いいえ、辺野古で計画されているのは、弾薬搭載エリアや軍港機能も備え、増強された新基地です。
    普天間は飛行場ですが、辺野古は軍港 機能も整備され、強襲揚陸艦が着岸できる、格段に増強された基地となります。辺野古の大浦湾には、実はベトナム戦争時から、米軍が飛行場と軍港の建設を計画していました。つまり、辺野古はもともと米軍が基地をつくりたかった場所なのです。そもそも普天間基地は、米軍が戦争中に沖縄県民から土地を奪って建設したものです。その危険な普天間基地の無条件の閉鎖・返還を沖縄県民が求めることは当然の権利ではないでしょうか。

  • 海兵隊は、日本を守る抑止力として 沖縄に駐留している?

    いいえ、かえって戦禍をよびかねません。
    海兵隊は、朝鮮戦争に伴い、岐阜県と山梨県に展開し、休戦後の1956年に沖縄に移駐しました。現在、アジア太平洋地域を巡回していますが、そのための艦船は佐世保基地にあります。森本元防衛大臣も言うように、沖縄でなければならない理由はありません。尖閣については、海兵隊司令官が「仮に尖閣防衛で日米同盟が発動しても離島奪還は海兵隊の仕事ではない」と明言しています。海兵隊の主力はグアムに移転します。沖縄では中国のミサイルが容易に届いてしまうからです。モンデール元駐日大使が明らかにしたように、沖縄への駐留継続にこだわっているのは日本政府の側です。もし米中が戦争になれば、悲惨な戦禍にさらされるのは軍事基地が集中する沖縄です。

  • 沖縄の経済は、基地に依存している?

    いいえ、基地はむしろ沖縄の経済発展の最大の阻害要因なのです。
    沖縄県の基地経済への依存度は、復帰直後の15.5%から現在は4.9%と大幅に低下しています。一方、すでに返還された土地の直接経済効果は、北谷町の桑江・北前地区で返還前の108倍、那覇新都心地区で32倍に達しています。また、観光業にとっても、米軍基地の存在による損失が大きいという認識が広まっています。特に、辺野古・大浦湾海域は、ジュゴンやウミガメ類が生息するなど、生物多様性に富んでいることから、自然環境を守りながら教育や観光に活用するリゾート地として地域の発展に役立てることができます。

  • 辺野古に基地をつくらなければ、日米関係は悪化する?

    いいえ、基地建設を強行したいのは日本政府で、米国は対応がより柔軟です。
    日本政府は、辺野古に基地をつくらなければ日米関係が悪化すると主張しています。しかし、米軍再編による海兵隊の移転計画にもかかわらず、建設費を全額負担してまで新基地計画を推し進めているのは日本政府です。逆に、米議会軍事委員会は、国防権限法最終案(2015年9月)で、普天間飛行場の移設は「辺野古が唯一の選択肢」という文言を撤回しました。日本政府より対応が柔軟で、翁長知事など沖縄側の要請に配慮したとみられます。アメリカは、辺野古新基地にこだわり過ぎると、沖縄県民の強い反感を受け、他の基地の運用も困難になるとみているのではないでしょうか。

  • 辺野古の基地:キャンプ・シュワブは、住民が誘致して建設された?

    キャンプ・シュワブの建設が決まり、土地の接収が始まったのは、1956年11月です。その前年、伊江村・真謝区と現在の宜野湾市伊佐区などで、米軍は基地建設のための土地の強制収容を行っています。これは「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる、人が住んでいる家を、強制的に住民を排除した上で、取り壊すという非道なやり方でなされました。また土地を二束三文の賠償金で取り上げるやり方に反対し、沖縄では、1956年7月に10万人以上が参加した抗議集会が開かれるなど、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる運動が盛り上がっていました。
    辺野古区が、キャンプ・シュワブの建設を受け容れたことは事実ですし、それが「島ぐるみ闘争」を挫いたとも広く考えられています。
    しかし、積極的な誘致をした事実はありません。米軍施政下の沖縄には、日本国憲法も米国憲法も住民の人権を守る上で適用されていなかったことを忘れてはなりません。辺野古区編(当時の久志村)『辺野古誌』には、伊江島や伊佐浜の惨状から、反対しても止められない、ならば基地からより多くの恩恵を受けた方がまし、という判断がなされた事情が書かれています。

  • 何もないところに普天間基地が建設され、住民が後から周りに住み始めた?

    現在普天間基地が占めている場所は、沖縄戦で破壊されるまで、8,800人の住民がいる農村でした。ここには、村役場、小学校、郵便局があり、砂糖キビ絞りの小屋や闘牛場、天然記念物の松並木もあり、当たり前の生活が営まれる場所でした。
    この時の写真は、字宜野湾郷友会編『写真集じのーんどぅーむら』に収められています。また、米軍が1945年沖縄戦前に撮影したこの地域の偵察航空写真が公開されており、それには、畑や家々がはっきり写っています。この一部は、宜野湾市教育委員会編『ぎのわんの地名 内陸部編付録地図』に収録されています。
    また、現在でも普天間基地内には、当時の住民の墓地や拝所(祈りをささげる場所)が残されている場所があり、米軍は、沖縄で先祖を祭る日である清明祭や盆には、旧住民の基地内の墓参り等を許可しています。
    普天間飛行場は沖縄戦で上陸した米軍が「本土爆撃用」にそこにあった住宅、集落、学校、畑などを敷きならして勝手につくった飛行場です。戦火を避けて住民が避難していた(あるいは米軍の捕虜になって収容所にいた)間のことです。

  • 辺野古に移設されれば、危険性は格段に減少する?

    「危険性の除去」。辺野古埋め立てを正当化するときに政府が繰り返すフレーズです。住宅が多い普天間周辺で航空機が墜落したら犠牲者は多く、辺野古なら人口が少ない集落なので事故があっても犠牲者は少ないというだけの比較論にすぎません。普天間と辺野古は直線距離でたったの36キロです。ちなみに東京では新宿から八王子までの距離です。米ハワイ州の海兵隊はオスプレイの飛行訓練で海岸沿いの滑走路を使用する計画でしたが、そこから1.6キロの地点にカメハメハ大王の生誕地があり、同機の強力な下降気流が史跡に悪影響を及ぼすと住民が反発しました。米海兵隊はその滑走路の使用を断念しています。人家の上を飛ばざるを得ないので、普天間でも辺野古でもオスプレイの飛行は米国ではあり得ないことです。

  • 政府は建設意思を固めており、地元がどう反対しようが辺野古新基地建設は阻止できない?

    米軍は1954年3月立川飛行場含め日本本土5カ所の米空軍飛行場の滑走路拡張を要求しました。1955年5月に日本政府は東京都砂川町(現立川市)に基地拡張の通告を出しました。1955年9月、翌56年10月に接収のための強制測量が行われました。10月の測量の際には、現地住民と学生デモ隊が警官隊がはげしく衝突し、政府は測量打ち切りを決定し、最終的には建設断念に追い込まれます。

    沖縄においても、強制接収を、断念に追い込んだ事例が多くあります。1965年12月末、具志川村(現うるま市)昆布の集落に対して、米軍施設天願桟橋の増強のため、周辺農地2万1千坪(約7万平方メートル)の強制接収を通告しました。昆布集落の住民は、接収予定地にテントを張り、さらに闘争小屋を建てて、畑の作物を育てながら非暴力の闘争を継続し、ついに5年後米軍は、強制接収を断念しています。
    1970年12月には、国頭村伊武岳の実弾射撃演習の通告があったのを、国頭村民が土のうの上に陣取る海兵隊員を引きずりおろし、着弾地点に入り込み、体を張って阻止することによって、訓練が中止になっています。
    1989年1月8日、国頭村の安波ダム周辺の土地の異変に気が付いた住民が問い合わせると、那覇防衛局もようやく米軍のハリアーパッド建設計画を発表、工事はかなり進んでいました。安波ダム入口で区長らが米軍に激しい抗議をする最中、住民が強行突破し、工事現場になだれ込んで工事を阻止、そのまま米軍は工事続行を断念しました。
    戦後の歴史において、米軍が安全保障上の理由をつけて意思を固めても、実現できなかった米軍基地の建設はいくつもあります。絶対に阻止できないということはないと断言できます。
    沖縄の人々の土地や沿岸は、沖縄の人々が、自分たちの意思に基づいて、開発または保全し、利用する権利があります。この権利は、米軍や日本政府の持ち出す軍事的理由に優越します。世界的には当然とされる地元の人々の権利で、国連は日本政府に対してその尊重を訴えています。安全保障上の理由をつけてこの権利を侵害することはできません。日本が国連から脱退するあるいは国際条約から脱退するのでないかぎり、この権利は保障することが義務とされています。

  • 辺野古基地周辺集落の住民は反対運動をまったくしていない?

    辺野古をはじめ、豊原、久志、二見、大浦、瀬嵩、汀間などの近隣集落において、生活の場で、人が交わる日常の場で、「反対」または「賛成」を明言することや態度で表すことは簡単なことではありません。ゲート前や海上の反対運動や抗議活動に加わることも、あるいは逆に抗議活動に明白に反対の態度を示すこともです。集落への補助金や様々な利益の可能性への期待、反対へのあきらめなどもあり、集落によって違いはありますが容認している人も少なからずいることも事実です。しかし、いずれの立場でも多くの方々は、長年にわたる対立で疲弊しています。対立は、集落の一体性や共同性を突き崩し、共同や相互扶助の取り組みにとってはその障害となるので、基本的には「賛成」、「反対」をおおっぴらに表明することは困難なのです。
    ゲート前や海上の抗議行動に加わる周辺集落在住の方々もいますが、周辺集落以外の地域からの参加者が多いことは確かです。しかし、辺野古基地の建設現場は、宜野湾市普天間飛行場から40キロも離れていない距離にあり、札幌市や広島市などの政令指定都市に置き換えると、市内移設となる近い距離にあります。仮に建設されるとなると、沖縄本島周辺全体の沿岸及び海域に影響が生じることが考えられ、オスプレイの訓練空域は沖縄本島全体を覆うがゆえに、中南部であっても大きな影響を受けます。そもそも、「地元」を狭く狭く解釈して、辺野古、豊原、久志の三集落だけに限定する考え方に問題があります。

  • 沖縄の地元紙、沖縄タイムスと琉球新報は偏向新聞だ

    県紙に求められるのは地域に寄り添った「県民目線」です。沖縄に「軸足」を置いているからこそ、地域の声を重んじるのは当然です。さらには報道機関として権力監視という役割も課されています。地元世論を無視し、政府の言い分を垂れ流すだけであれば、それこそ「偏向」であり、報道機関としての使命をも放棄したことになります。
    たとえば県民の8割が辺野古新基地建設に反対している状況にあって、県紙がそうした声に寄り添い、政府側に対して厳しい論調を示すのは自然なことです。
    沖縄の新聞を突き動かしているのは地元世論です。戦後、沖縄では保守系紙も含めて多くの新聞が創刊されました。激しい競争のなかで生き残ったのが沖縄タイムスと琉球新報の2紙でした。それは県紙が持つべき「目線」と「軸足」が評価されたからにほかなりません。「偏向」のレッテル貼りは、沖縄県民の意思を愚弄するものでもあります。

  • 辺野古に集まっているのは「自称」市民たち?

    現在、辺野古にキャンプ・シュワブのゲート前での抗議行動に参加する方々のうち、最大数は、那覇からチャーターバスで毎日3〜40名程訪れる島ぐるみ会議の参加者です。このバスは、毎朝午前9時半までに県庁前広場に集まれば、どなたでも乗ることができます。それと同時に市町村単位の島ぐるみ会議(30市町村以上)が存在し、週一回程度バスを派遣しています。北部近隣市町村の島ぐるみ会議は、早朝の時間帯に訪問を設定するなど、毎日、島ぐるみ会議系の組織のバスが入れ替わり立ち替わりで辺野古に集結し、少なくとも200人以上の市民が抗議に参加しています。この方々は当日にバス代を支払い、お弁当を持参して、自発的に参加するのであって、労組や職場の命令、政治団体の命令で参加してるわけでありません。平日はしたがって、退職後の方々が多くなる傾向にあります。土日だと若干若い方が多くなります。
    チャーターバス以外の方々は周辺集落からの参加者、自家用車で乗り合いをして中南部あるいは近隣市町村から直接来られる方々も多くいます。これも自発的な参加者です。労組や企業ごとに団体で来ることはまれにありますが、組織的に資金負担を行い抗議メンバーを辺野古に長期常駐させることはまったくできない状況です。それほど裕福な労組も企業も今の沖縄にありません。

  • 辺野古についても地元の人たちに決めさせればいいことで、本土の人間が反対するというのはオカシイ

    これは、名護市の公共施設を名護市辺野古に建てることについての問題ではありません。日本の国家財政から、1兆円に上る巨額の予算を費やして海を埋め立てて、軍事的に日本国民が信じ込まされているような機能を持たない在沖海兵隊のために、彼等の思うままに私たちの税金を使うという話なのです。日本国民皆が自らの問題として考えるべきであるのは当たり前です。
    この1兆円は、福祉、教育、子育て、就労支援、医療、等々の国民生活を直接支援することに使える金です。陸自オスプレイ17機の3,600億円という値段は、全国立大学の年間授業料総額や、全国の保育士の給与水準を、全産業賃金と同じに引き上げるのに必要な額と同じだそうです。あるいは、金がかかり過ぎるので建設を止めた、ザハ・ハディド氏案の新国立競技場の建設費用2,500億円に、年間30億円という維持費を30年分加えたよりも額が大きいのです。
    安全保障、軍事だからと、国民が目を光らせないと、いいように税金が浪費される、その典型例が辺野古です。本土の人間が反対しないで良いのですか?

出典 :
『それってどうなの? 沖縄の基地の話。』(編集・発行 沖縄米軍基地問題検証プロジェクト)
『辺野古新基地建設4つの誤解』(発行 辺野古・高江を守ろう! NGOネットワーク)
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